社会で活躍するOBの紹介

社会で活躍している、あるいは活躍された卒業生(同窓会会員)を紹介したいと思います。
不定期に取材した方々を順不同でご紹介いたします。取材者の主観が入りますがご了承ください。
なお、文面に間違いや、掲載に差しさわりがあるものがあれば、問い合わせフォームより、ご連絡下さい。

帝京大学経済学部教授 元セイコーエプソン代表取締役副社長 丹羽憲夫氏

1965年3月 滝高等学校卒業
1969年3月 横浜国立大学卒業
1969年4月 諏訪精工舎(現セイコーエプソン)入社
2回 アメリカ赴任 (計20年)
1973年~1981年3月、1990年~
1992年末~2002年 エプソンアメリカ社長
帰国後、セイコーエプソン常務=>専務=>副社長兼CIO
~2008年 退

“米国での生活が長いですね”

はい、アメリカには20年ぐらいいますね。1969年に諏訪精工舎に入社し、72年10月に結婚しましたが、翌年73年秋からアメリカ(ロサンゼルス)に一人で赴任しました。家族が来たのは、74年6月です。3年間ぐらい、広い米国を一人で営業していました。

”一人で?”

はい、一人で、プリンターを売りました。英語ができたわけではなかったので、まずは英語をやらなきゃと思い、当時、ロスにいましたが、ロスではラジオも新聞も日本語版がありましたが、一切日本語には触れませんでした。アパートを探して、一人で住んで、TVとラジオとロサンジェルスタイムズ、全て英語。家族が来るまで、できるだけ日本語を使わないという生活をしました。

TVもコメディはわからないので、見るのはスポーツ番組とニュースだけ。夜TVでニュースを見て、翌朝新聞で内容を確認していました。
一番困ったのは、電話ですね。電話がきて、相手に興味があるとわかった時は、とにかく実際に会いにいきました。行って、目の前で製品を見せて話している間に耳も慣れてきたようです。

この間、飛行機に一番多く乗ったのは、かなり慣れてきた1979年です。年間115機に乗りました。

”米国でのスタートは順調だったのですか?”

プリンターのビジネスがスタートして、営業の1期生として何とかしなきゃと必死でしたが、順調というわけではなく、大変でしたよ。もともと、セイコーグループ。ブランドを使えば売れると思ったけど、失敗しちゃダメだからセイコーのブランドを使うな!と言われたのです。
1975年にエプソンというブランドが制定されましたが、それまではブランドなしです。

今の帝京大学は、大学の6~7年先輩から声がかかったものです。もう4年目になります。学者じゃないけど、マーケティングと企業戦略論を、自分の経験を織り交ぜて話しています。週1回金曜日だけの授業ですけどね。後は、横浜国大でも年に1回だけ授業をやっています。これも3年やっています。

当時、信州精器(当時諏訪精工舎の関連会社で後のエプソン株式会社。現在のセイコーエプソン)がプリンターを作り、そのプリンターを電卓メーカーがセイコープリンターを使っていると宣伝したら、アメリカのセイコータイム(セイコーグループ)から抗議の電話がかかってきました。セイコーの名前を使うな、と。

そんなことがあったので、このビジネスを絶対に成功して、見返してやる!と思いました。

今は、セイコーグループにおいてエプソンはダントツで、売上が1兆円を超えたこともあります。

その後、米国だけでなく、シンガポールにも82年に販売会社を作りました。
83年には、オーストラリアのシドニーに行って、弁護士を探して、会社設立をレジストリ(登記)から一人でやりました。つまり、ファイナンスから営業までキーパーソンの採用から、既に国内にあった代理店契約の解除もやりました。約半年かけて営業開始にこぎつけました。

80年代の後半はヨーロッパの販売組織の再構築で、欧州地域本社の設立プロジェクトのリーダーもつとめて、アムステルダムに欧州本社を設置しました。

“企業戦士の鏡のようですね”

思い残すことはないよ。大学時代からのフィロソフィとして、社長が誰であれ社長が「ぼちぼち」と言ったらやめると決めていたので、きっぱりやめました。顧問とかは若い人がやりにくいから。今は、エプソンとは全く関係がないです。株は持っているけど。

”大学で教えていて、思うことは?”

学生がおとなしい。しゃべらない。だけど、文章を書かせると倫理感、正義感がある。
質問あるか?と聞いても誰も何も言わない。だけど、書かせると結構書く。

昔は、自分には反攻心があった。押し付けられるのが嫌いで。中学の時は野球をやっていたけど、高校でやめろと言われた。「普通科だろ、やめろ」って。それで応援部を作った。

先生が運動部はダメ、野球はダメといった。お前も大学に行きたいだろと。だったら文化部ならいいかと同級生と3~4人で応援部を作った。当時は滝実業の時代。滝実業名物なんとかおどりで新聞にも出ましたよ。

あ、そうそう、映画の「高校3年生」にもエキストラで出たのですよ。生徒会の委員をやっていたから。
エキストラの人数も集めましたね。

”活発な学生生活でしたね”
とにかく、反発が強くて、高3の時、名古屋大学とみんなが言うから反発して名古屋大学だけはやめようと思った。当時は1期と2期があったけど、1期で一橋を希望し、2期で横浜国大の経済学部を受けることにしていたけど、どうしても名古屋大学を受けろというので、結局は1期で名古屋大学を受けた。受ける前から、横浜国大が受かったら横浜国大に行くと約束していたので、名古屋大学に受かっても、横浜国大に行きました。

しかし、入学してみると、みんな暗いのです。1期で東大や一橋落ちた人が2期で来るから。私ぐらいだったようです。そういうのは。

とにかく、反抗心、反骨心がずっとあったと思います。
就職する時も、みんな商社や金融に行くけど、あまり興味がなかった。たまたま、諏訪精工舎はどうか、と教官が聞いてきた時、上諏訪には温泉があると思って、面接に行く気になりました。ラッキーでしたね。時計だけだったらたぶん面白くなかったでしょう。

”就職してどうでしたか?”

内定が決まった時には、勤労課で、人事労務の仕事の予定でした。入社して1ヵ月は全く面白くなかった。
当時学生紛争で卒業ができないという状況でした、なにしろ卒業に必要な英語の単位があったけど、3月までテストができなかったから。それで3月31日(入社前)に呼び出されました。その時に、新しい企画ができると聞かされました。
5月始めに、プリンタの製造・販売をする新しい組織ができ、5月21日付でその部署にかわりました。

どうやら、面接の時に、面接官が当時常務で(後で社長になった人ですが)、「君はどういう職種が希望?」と聞かれ、“営業”と答えた。「それは困るねぇ。うちは営業がないから」と言われたけど、このことを覚えていたのかもしれません。営業をやってくれと言われたから。

80年くらいまでは上司とけんかばかりしていました。アメリカに赴任してても電話で怒鳴ったり。
81年に戻ってこいと言われた時、考え直しました。自分は一人で走り回っていたけど、同期は、課長とかになっていて、10人も20人も部下がいた。これから部下と仕事をするにはどうしたら良いかと考えて、それから、怒鳴らないことにした。とにかく相手の意見を良く聞くことにした。

”180度転換ですね”

はい。そうですね。以来、10年に1度くらしか怒鳴らなくなりました。

相手の意見を聞いて、自分の意見に近い方に誘導する、というやり方にきりかえた。忍耐強くなったんだねぇ。とにかく、1時間でも話す。絶対に自分の意見を強制しない。相手の話を聞いて、それにはこういうリスクがある、ということだけ言う。そのうち、だんだん自分の意見に近づいてくる。近づいたところで。それで行こうって。絶対に自分がそう思っていたとは言わない。
相談したいと言ってきたら、絶対に拒否しない。しっかり話を聞く。

会社をやめたいという人も来ます。「やめてどうするか?」と聞くと、“これから探す”と言う人が、結構いるけど、これは認めない。奥さん、子供いるのにどうするの?と。会社にはいろいろな部署があるから自分にあったところを探してみて、と言う。それでもダメなら、どこに行くって決めてきたら認めますよ。別の会社でもね。
会社をやめる最後の1年は人事の仕事、人材開発を担当しました。

“人材開発?”

今どういう仕事をしているか?将来何をしたいか?をプレゼンしろ、と社員達にさせましたね。

人事部門の社員達には、“人事は社長のスタッフだよ、評価制度とかちゃんとまわすように!”、“適材適所で人がまわるようにすべき”などと、随分と意見交換をし、意識改革につとめました。

とにかく、やらなきゃいけないことは自分で作っちゃう。組織で与えられた仕事を言われたようにやるだけじゃなくって、会社のために自分は何ができるか、絶えず考えることが重要。

会社が大きく発展していくと、社員は大企業病に陥りやすい。つまり、組織の一部となって、細分化された仕事をするだけになる。人材開発というのは重要だと思います。私は会社トップの仕事の半分は人材開発だと思っています。
これからの人生、何らかの形で人材開発に自分は関わっていけたらと思う。

取材にご協力頂きありがとうございました。大変勉強になりました。

2012年2月9日取材、
(文責:S57卒 佐宗美智代)