社会で活躍するOBの紹介

社会で活躍している、あるいは活躍された卒業生(同窓会会員)を紹介したいと思います。
不定期に取材した方々を順不同でご紹介いたします。取材者の主観が入りますがご了承ください。
なお、文面に間違いや、掲載に差しさわりがあるものがあれば、問い合わせフォームより、ご連絡下さい。

国立療養所 医師 中井淳仁氏

 国立療養所多磨全生園  厚生労働技官耳鼻咽喉科医長
S55年3月 滝高等学校普通科卒業
〃  4月 東京大学教養学部理科三類入学
S61年3月 東京大学医学部医学科卒業
 〃  4月  王子生協病院 研修医
S63年6月 国立病院医療センター(現:独立行政法人 国立国際医療研究センター病院)
耳鼻咽喉科レジデント
H2年9月 国立療養所多磨全生園 厚生技官耳鼻咽喉科医師
H6年9月 同  厚生技官耳鼻咽喉科医長
H7年4月 日本耳鼻咽喉科学会認定耳鼻咽喉科専門医
   10月 日本気管食道科学会認定医
H13年 国立療養所多磨全生園 厚生労働技官耳鼻咽喉科医長(省庁再編による官名の変更)

”現在のお仕事の内容をお聞かせ下さい”

ハンセン病は一般に皮膚科の病気と思われていますが、病気がひどくなると、鼻の中で菌が増殖し、鼻に症状が出ます。今いる人達は病気は治っていますが、後遺症のため鼻にごみがたまります。人間の鼻には線毛上皮(せんもうじょうひ)、つまり、波打つように動く細かい毛がビロードのようにびっしりと生えていて、これが鼻の奥にごみを送りノドに落とすのですが、この線毛上皮が病気の後遺症で無くなってしまうため、鼻にごみがたまります。専門的には、らい性萎縮性鼻炎といいますが。
だから、僕は、毎日患者さんの鼻の掃除をしています。(笑)

 本病(ハンセン病のこと、療養所内で話されるときにはしばしば本病という)は、潜伏期間が長く、幼少期にひろっても、何年も経って10代で発病する患者さんが多いです。もっとも、今では新規発症は、日本全国で年に4,5件あるかないかぐらいですが。世界的には、まだ有病率は1万人に1人以上いて、ネパール、東チモール、ブラジルなどはまだ残っています。最近は日本に出稼ぎに来ている日系ブラジル人が発症するケースも。
 かつての政策により、今でも偏見が持たれていますが、完全に治る病気であり、他の感染症と何ら変わりはありません。

”今の仕事に就かれた経緯をお聞かせ下さい”

学生の頃、大学に入学してから、学者よりも医者をやりたいと思うようになりました。
それも、かっこいい医者より、村医者をやりたいと。
大学の医学部は自分にあわないと思っていました。
たまたま、全生園に派遣されて、まさに村医者の理想がここにあると思いました。それで、ここに残りたいと願い出たわけです。

(”え、志願されたのですか?”)

そうです。ちょっとびっくりされましたけど。本当にいいのか?と念を押されましたけど。
普通の病院は、病院に先生がいて患者が毎日入れ替わりますが、ここでは、生活しているわけですから、患者は変わらず、医者が入れ替わります。ここには、自分の思い描いている医者像がありました。それで居つくことにしたんです。居心地が良かったんですね。

”最初の理三合格者、その後のうわさは?”

(”滝高校も今では毎年のように東大理三に合格者が出ますが、中井先輩は最初の合格者だったと思います。先輩の合格後、いかに天才であったか、うわさになったんですよ。特に、4月に教科書が配布されると、すぐに一通り教科書を読み、それだけで頭に入ってしまって、授業受ける前から1年分理解していたという、うわさを聞きましたが、それは本当ですか?”)

本当です。  (・・・・・)
教科書をもらうと、すぐに読んでしまうのが好きでした。勉強は楽しく好きでした。
それで、高校生の頃は、将来学者になろうと思っていたんです。
ところが、東大に入ったら授業が全くわからなくて。(笑)
上には上がいるものだ、と実感しました。自分には学者になるような素質がないと思いました。一応、授業の単位はとりましたし、医師国家試験も合格しましたが、学者には向かないと思ったわけです。それで、村医者を目指そうと。

”高校時代のことと、趣味なども聞かせて下さい”

中学、高校は合唱部でした。大学も合唱団にはいっていました。
その他、山歩きや旅行も趣味で、独身時代はヨーロッパなどにも行きました。今は夫婦で旅行しますが、あまり遠出はしませんねー。子供は高校生の娘と中学生の息子の二人います。

”今後は?”

今は、鼻掃除の他、難聴の人に補聴器をお世話しています。後は人生相談を受けているぐらいでしょうか?午前中は診療をし、午後は会議に出席したり、時間のかかる検査をしていることが多いですが、皆さんの住まいをまわることもあります。やや難しい病気が疑われる時は大病院に送り込みますが、昔は患者さんの受け入れにも気を使いました。医者の中にも偏見や無知がありましたから。ほんの10数年前まではそんな感じでした。だから患者さんがいやな思いをしないように、よく知っているところにしか送れなかったです。今は随分良くなりましたけど。
最初来た時は、ここには700人ぐらいの人がいましたが、今は平均年齢が80歳を超えて、270人ぐらいになってしまいました。僕の仕事もどうなるかわかりません。
かつては、朝来ると、ここ(外来待合室)には目の見えない人が杖をついてずらっと並んで待っていたんですよ。今は少なくなりました。ずっと続けられるといいんですけどね。

(取材はここまで)

この後、ハンセン病資料館をご案内頂きました。

取材した私自身、ハンセン病について全くよくわかっていなかったと気付きました。
全く普通の人が、ただ病気に感染したというだけで、ある日、警察がやってきて、家族から引き離され、社会から隔離される。薬ができて完治するようになったのに、随分と長い間、隔離されてきた事実。

資料館には、是非一度、皆さんにも足を運んで頂きたいと思います。

以下、施設の写真をご紹介します。


多磨全生園入口


事務本館


治療棟


居住区


納骨堂

▼ハンセン病資料館

関連サイト:
・ハンセン病資料館
・国立療養所多磨全生園

平成21年9月1日取材 国立療養所多磨全生園にて
文責:S57卒 佐宗美智代